【ドキュメント】直木賞発表鑑賞会の裏側【最終回】
さて、先日二記事にわたってお話させていただいた直木賞書評会レポート。
苦労をさせて時間をかけさせて国語の授業でなぜこんなことをしているのか、
「白石がやろうとしていることはなんなのか?」
此度の書評のように、みんなは読解してくれているでしょうか。
書評に必要なのは、作品を読み解く力と感じたことを言語化する力。
これはまさしく私が常日頃延々と言っている「国語力」、読解力と表現力です。
この本に描かれていることはなんなのか、正しく理解すること。
自分がどう感じたのか、伝わるように言葉にすること。
一見遠回りに見えますが、この「国語力」を鍛えることで、
試験で言えば初めて読む文章題にも臆する必要はなくなりますし、
記述問題や小論文も武器にできるようになります。
そしてこの「国語力」は、「国語」という科目を超えて、
人間力の強さ、人生の豊かさにつながっていきます。
読解力と表現力。
それは誰かの思いを、偏見を捨て丁寧に紐解くこと。
それは自分の思いを、感情を込めて適切に伝えること。
分かり合うために言葉を使って話し合うことができる力。
誤解をほどき、暴力に頼らず、互いを正しく理解する力。
これを、さぼってはいけません。
自分自身のためにも、周りの人のためにも。
そしてそのためになにかアイテムを使うなら、楽しいものに越したことはない。
ゲームのように遊べたら尚いい。
題材は、できるなら“本物”を使いたい。
みんなの将来に種を蒔けるものなら最高だ。
そうして選んだのが、(もちろん自分の趣味であることも多いにありますが)直木賞の予想です。
書評後最初の授業で、言葉は悪いですが生徒にこんな話をしました。
「もしもこれから理不尽に人から見下されたり悪意を向けられることがあったら、
こっそり心の中で見下し返してあげなさい。
『でもお前、直木賞の候補作読んだことあんの?』って。『お前、私より本読んでるの?』って」
・・・少しひねくれすぎでしょうか。(笑
でも、そうやって心を強くできるなら、なんにも悪くないと思いませんか。
中学生で直木賞の候補作を読んでいる人が、日本にどれくらいいるでしょう。
ましてその書評を書いた人が、それを人と語り合った人が、いったいどれだけいるでしょう。
当たった外したはどちらでもいい、書評が不出来だっていいのです。
まずはその本と向き合ったことを、ひと月付き合ったことを誇りにしてほしい。
贔屓目でもなんでもなく、その事実は誇るに値します。
本なんて読まなくても生きていける。だけど豊かさはそういうものにこそ宿っている。
自分の中を通って行った物語は、消えません。積み重ねた読書の事実は揺るぎません。
本棚に並んだ本が、記憶に残るその数が、いつかわずかな心の支えになりえるかもしれない。
読書量だけを話すとよく「読書が好きなんだね」と言われてしまいますが本当は私は本を読むのが嫌いです。
だって疲れるし、自分でページめくらないとすすまないし、時間はかかるし体力使うし、面倒くさいじゃないですか。
それより漫画が読みたいし映画が観たいし、本当は酒だけ飲んで酔って寝て暮らしたい。
だけど、そういう怠惰な部分を自分に認めるからこそ、私は「本を読む人」に強く憧れてきました。
本を読んでいる人って、格好良い。自分もそうありたい。
そう願って、そうあるために、今日も直木賞を追っています。
今回の直木賞の候補作だった彩瀬まるの『新しい星』にはこんな言葉がありました。
「正しくて理知的な、そうありたい自分の像を握りしめているのは大切なことだ。」
みんなも自分の、「こうありたい」像をぜひ思い描いてください。
そしてその分岐になり得るとき、私たちにぜひ手伝わせてください。
さて。
受け持ちクラスが中学3年になる夏、さすがに来期の直木賞に同じことをしている場合ではない気がしますが、
引き続き【白石文庫】を入れ替えながら、
みんなの「国語力」を育てさせていただきます。
長々とお付き合いありがとうございました!
白石