中高生の英語教育を考える① ─繰り返されてきた英語実用・教養論争─
こんにちは。川西市の進学塾、川西進学ラボです。
今回から、不定期ではありますが、数回(数十回?)に分けて、中高生の英語教育についての当塾の考えを書いていきたいと思います。
少し専門的な内容も混じりますが、是非、ご一読いただけたら幸いです。
なお、以下の内容は、当塾の英語科講師全員に共通した考えというわけではありません。
学習塾に求めること、それはご家庭によって様々です。
学習習慣を身につけさせたい、難関高校・難関大学に合格するための高度な学力・テクニックを伝授してほしい・・・、ただ、最大公約数としての要望は、「目の前の定期テストの点数を伸ばしたい」「通知表の成績を上げたい」ではないでしょうか。
しかしながら、こと英語に関しては(注1)、学校の定期テストの点数を上げるだけでは、本質的な英語力(注2)はもちろん、いわゆる受験英語の実力も身につきません。
詳細については後述しますが、現在の文科省が進める中途半端なオーラルコミュニケーション重視、文法軽視がその要因です。
こうした文科省の教育方針の動機は至極単純で、昨今のグローバル社会においては、文法・読解を中心とした旧来の教養英語よりも実用英語が大事だという風潮(注3)に流されたものにすぎません。
とはいえ、この教養英語VS実用英語という対立の図式は今に始まったものではなく、後述するとおり、明治の開国以来、幾度となく繰り返されてきたある種の神学論争といえます。
たとえば、1975年に、平泉=渡部論争という英語教育法をめぐる論争がありました(注4)。
元外交官で参議院議員であった平泉渉の主張をまとめると以下のようなものです。少し長いですが、現在の英語教育の風潮をある種、先取りしているので、是非読んでみてください。
「選ばれた少数のためのものであった旧制の中等教育においてさえ,多くの時間(例:週 12 時間×8 年)を割いても,英語は実用段階にまで達することがほとんどなかった(読むことさえできなかった)。そうであれば,今の大衆化された新制の中等教育で,ずっと少ない時間(例:週 3〜4 時間×6 年)しか英語を教えないのなら,それで英語が使いものになる道理がない。…中学の英語は,「世界の言語と文化」という introductory な授業の中で,現行の中学1年レベルのものにとどめ,高校では能力と熱意を持つ希望者にだけ特訓的な教育(毎日 2 時間以上+毎年 1 ヶ月以上の集中訓練)を施し,本当に使いものになるレベルに到達させるようにすべきだ。…本当にできる人が必要だということだ。高校の英語特訓は,アメリカが成功させた「完全集中訓練」(日本語の使用は禁止)でやるのがよい。受講者を 5%に絞るとは言っていない。志望者は誰でも受けられる。予習負担も少なくし,「毎日,教師との『生きた接触』をできるだけしばしば “くり返す” 」のが趣旨である。私の言う「実用能力」は「聞く・話す」に限定されていない。「4技能を一応こなせる」ことを意味している。会話がうまくいかないのは,(イ)教師自身が話せない,(ロ)高校・大学の入試問題に会話が出ない,(ハ)受験英語に強くなると会話が弱くなる,といった要因のためである。大学入試,高校入試から英語がなくなれば,(ロ)(ハ)はなくなる。(イ)については,おいおい対策を立てていけばよい。黴臭い読解第一主義には賛成しかねる。言語は音と結びつたもので,正しい発音でなければその語学は使いものにならない。」(注5)
この平泉の主張に対し、上智大学教授で英語文法史の専門家でもあった渡部昇一は以下のように反論しました。
「平泉氏の『外国語教育の現状と改革の方向』は,苦労して覚えても何の役にも立たない英語教育に対する国民のルサンチマンに巧妙に取り入ったもっともらしい案だが,徹頭徹尾間違っている。旧制の英語教育は,英語文献を正確に翻訳できる日本人を輩出するという素晴らしい実績を生み出してきた。それによって西洋近代を日本に移植できたのだ。学生は英語が話せても文法的にきちんと説明して訳すことができない教師を軽蔑する。そういうメンタリティが日本人にはある。翻訳による外国文化移入は聖徳太子以来の伝統あるもので,実用語学ではなく,内容ある外国語の原典を正確に読むことで日本文化が豊かになってきたのだ。軽薄なことを英語で話すけれども本が読めない現地体験組は無用の長物である。会話英語は単なる条件反射だが,英文を読むということは母語の日本語との格闘を意味する。日本の現行の国語教育は文学教育にすぎず,日本語が言語的に鍛えられるのは,外国語との知的な格闘を通してである。ゲルマン民族も古代ギリシャ・ローマの古典と格闘することによって西洋文明を築いてきた歴史的事実を想起してもらいたい。」(注6)
これ以上、両者の議論に深入りすると、本論の趣旨とズレていきますので、いずれの主張が正しいかどうかは横に置きます。
要するに、現在の英語教育をめぐる対立状況をごく単純化すれば、経済界とその意向を受けた政府・文科省、受験英語を生業としない英会話塾は平泉の実用英語派、大学で英文学や英語学を専門とする学者・研究者や旧来の予備校業界(特に伊藤和夫の系譜を継ぐ駿台予備校など)は渡部の教養英語派ということになります(注7)。(敬称略)
(注1)国語・数学も同様の傾向があるものの、英語が最も顕著である。学校の成績と高校入試や模試の成績ほど相関がうすい教科は、英語をおいて他にない。
(注2)「本質的な英語力とは何か」という問いはもちろん難しい。4技能がバランスよく備わっていることか、ネイティヴと流暢に会話できる能力なのか、もしくは、欧米の最先端の学術論文を読みこなせる英文読解能力なのか、論者によって定義は様々であろう。本論では、現在のわが国におけるスタンダードな受験英語を突破する英語力とリーディング主体の英語力を本質的な英語力と定義する。
(注3)[安河内哲也『英語革命2020』文藝春秋、2018年を参照。安河内の意見にも傾聴すべき点は多いが、ややスピーキングに偏重しているように思える。とはいえ、安河内自身も文法の重要性を否定はしていない。
(注4)平泉渉・渡部昇一『英語教育大論争』文藝春秋社、1975年を参照。
(注5)平泉渉「外国語教育の現状と改革の方向」
(注6)渡部昇一「亡国の『英語教育改革試案』」
(注7)とはいえ、この平泉=渡部論争は実用英語か教養英語かという単純な論争に止まるものではない。両者に共通する意見や内容もある。どちらも、保守派でありながら国際派であったという点に加え、
1)語学には非常な努力が必要で,戦前であれ現在であれ,実用レベルに達した日本人は少ない。また平均的な大学生の語学力は年々落ちてきている。
2)「実用」価値は,会話だけではなく,「読む」「書く」「聞く」「話す」のすべてに該当する。
3)基礎文法は重要である。
4)語学では,多大な記憶作業が要求される。
5)大学入試とそのための受験勉強が英語教育に大きな影響を与えている。
6)語学学習は,学習者の知力ないし精神性を高める上で有効である。
7)英会話ができるようになるためには,母語者との対話経験が不可欠である。ただし,現地に行けば自動的に会話ができるようになるというのは根拠のない神話にすぎない。
8)英語教育のありようは,日本の盛衰に関わる。(南谷覺正、前伊掲載論文、84頁)。
鳥飼玖美子『英語教育』みすず書房、2014年も参照。だが、この論争は、後に、英会話派対英文読解派のように単純化され解釈されていった。そして、平泉派の考えが誤解?されたまま、公立中学における週3時間の英語、ネイティブスピーカーの教育現場への導入へとつながっていく。